2017年9月6日が来て丸2年。
そして、3年目に突入する左半身麻痺生活。
週2回のヘルパーさんの昼・夜のおかずの調理と部屋・風呂場・トイレの掃除等の介助。
週2~3回のデイサービス。
週2~3日の会社へ出勤。
やっとこの左半身麻痺の生活が馴染んで?
言うほどの不便は無くなった様な気はしていました。
43歳まで出来ていたことのほとんどが出来なくなっている現実はどうしようもなかった。
まだまだやりたいこともあるのに思う様に動かない身体にイラ立ちも出始めていました。
それでも容赦なく「あれしろ、こうしろ」と言ってくる社長に対しても、
こんな障害者を雇ってくれたことには感謝はしてました。
こんな身体になっていても、事務能力だけで雇ってくれていたのだと思っていました?
病気をする前は、夜勤帯の電気工事の職人の仕事をその時の社長の下でしていました。
数えれば10年くらいの付き合いになる社長でした。
2015年の3月頃に。
私が、ある施設から帰ってくるのを待っていた社長が、
その時も心よく雇ってくれていたのだは、建築工事等の技術力が有ったからだと思います。
その年に、個人事業から法人化するのに、電気工事だけではなく建築業全般の仕事をしていた私と共に立ち上げた会社だったので、この社長に就いて頑張っていこうと思っていました。
どんなに辛いことを言われても頑張って耐えて現場に出て朝から晩、夕方から翌朝。
ほとんど休みなしで、会社の近くに引っ越して一人暮らしで頑張っていました。
そんな2015年9月6日の深夜2時頃。
トイレに行こうとして立ち上がろうと思った時に左手に力が入らず。
右の頭が痛くなり始め。
「これは?危ないのでは。」
そう思いながらも朝の集合時間を気にしてまず、夜中2時でしたが社長に電話をして遅刻することを伝えようとしましたが繋がらず。
それから119番に電話しました。
その時は、症状と住所を言えましたが?
電話を切った瞬間くらいに頭に割れる様な激痛が走り始めました。
耐えれずもう一度119番に電話して「早く来てー・」
そう叫んでいました。
何とか意識を保ちながら救急車が来るのを待っていましたが玄関の鍵が閉まっていることを思い出し。
社長は繋がらないので、会社の同僚に電話して会社にある私の部屋の合鍵で明けてもらえる様に頼みました。
救急車と同僚が来るのがどちらが早かったのかは解りませんが?
遠くから救急車のサイレン音が聞こえてきてマンション前でとまりました。
そこから、マンション裏から大きな音がし始めました。
その当時はマンションの1階に住んでいたので、ベランダから入って窓ガラスを割って入り4人がかりで100キロの巨体を運んでくれました。
マンション前の担架に乗せられた時には同僚の顔が見えました。
そして、救急車に乗せられて動き始めて。
「初めて救急車に乗るな~。」そう思いながらも
救急隊の方が色々聞いて来るのに受け答えはしてるなぁ~?
「救急車って結構揺れるんだな~。」
そう思った瞬間に意識が無くなり。
意識が戻ったのがプロローグでもお話したように
それから二週間ほどしてからでした。
これが3年目の外的な左半身麻痺生活でした。